Luminareo

アストロラーベの歴史

名前の由来

2018-06-18

オックスフォード英語辞典で「astrolabe」は「star-taker(星掴み)」と訳されており、語源はギリシャ語の「ἀστρολάβος」(ἄστρον『星』+ λαμβάνειν『掴む』)であると解説されています。


なお、アラビア語では「 ٱلأَسْطُرلابal-Asturlāb)」と表記されますが、中世イスラム圏ではこの語源について、いろいろ紛糾していた模様です。

10世紀のイスラムの学者・ハムザ・アル=イスファハーニー(*893頃〜†961以降)は「Asturlāb はペルシャ語の『sitara yab(星を取るもの)』をアラビア語にしたものだ」と説明していますが、その少し後の学者・アル=ビールーニー(*973〜†1048)はそれは間違いだと批判しています。

一方では通俗的に「Lab の血統(Lab とはイドリース(預言者エノク)の息子の一人)」が語源であると伝えられていました。10世紀の学者・アル=クンミもこの説を唱えていますが、9世紀の学者・アル=フワーリズミー(*780頃〜†850頃)はこの話を否定しています。

現代のアラビア語テキストでは、語源はギリシア語の「星掴み」を直接翻訳した「 آخِذُ ٱلنُّجُومْākhdhu al-Nujuum)」であると説明されます。

古典時代

アストロラーベ爆誕

最初期のアストロラーベは、紀元前220年〜紀元前150年頃に、ギリシャのヘレニズム文化で発明されました。
発明者は、紀元前2世紀の天文学者・ヒッパルコス(*前190頃〜†前120頃)であるとする説が有力です。
一方で、発明者は紀元前3世紀の数学者・ペルガのアポロニウス(*前262頃〜†前190頃)であり、ヒッパルコスはアストロラーベの製作に必要な「ステレオ投影」という考え方を改良し、再定義しただけだとする説もあります。

ステレオ投影の考え方自体は、ヒッパルコス以前から古代エジプトでも知られており、星図の作成に使われていました。
現存する最古のステレオ投影の解説書は、「アルマゲスト」で有名な1世紀の天文学者・プトレマイオス(*83頃〜†168頃)が書いた「Planisphaerium(平面球形図)」です。
プトレマイオスは、別の著書「テトラビブロス」で記した天文観測を行う際に、アストロラーベを使っていたとする説もあるようです。

この頃のアストロラーベは、まだ現在に伝わるような形ではなかったと考えられています。
しかしステレオ投影を応用し、星座早見盤とディオプトラ(照準儀)を結びつけることで発明されたアストロラーベは、初期の天文学である球面天文学での問題を、何種類も効果的に解決することができました。

平面アストロラーベの登場

4世紀のエジプトの天文学者・アレクサンドリアのテオン(*335頃〜†405頃)が、アストロラーベについて詳細な論文を書いたと伝えられています。

また、テオンの娘で数学者でもあったヒュパティア(*360頃〜†415)が、現代まで伝わる形の「平面アストロラーベ」を発明したと伝えられます。しかしこれは誤りで、実際には平面アストロラーベはヒュパティアが生まれる以前、少なくとも500年前から使用されていました。
この誤りは、ヒュパティアが生徒のシュネシオス(*373頃〜†414頃)に送った手紙の中で平面アストロラーベの作り方を解説していたことから生まれたようで、平面アストロラーベをヒュパティアが発明したという具体的な証拠は特にありません。

ところでアレクサンドリアのテオンは、あのアレクサンドリア図書館の最後の図書館長でもありました。
ヒュパティアはキリスト教徒から迫害を受けて虐殺され、アレクサンドリア図書館もまた異教の教えを取り扱うものとしてキリスト教徒に破壊し尽くされました。
ヒュパティアがシュネシオスに送った手紙は断片的に現存していますが、アレクサンドリアのテオンの論文は現代には残っていません。

そして東方へ…

しかしその後アストロラーベは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のギリシア語圏で使われ続けました。

550年頃、アレクサンドリアのキリスト教の哲学者・ヨハネス・ピロポノス(*490頃〜†570頃)が、アストロラーベに関する論文をギリシャ語で書きました。
この論文がアストロラーベについて現存する最も古い文献です。

また、7世紀半ばに、メソポタミアに住んでいた主教のセヴェルス・セボフト(*575〜†667)が、テオンの論文を元に、アストロラーベについての論文をシリア語で書きました。
25章からなるこの論文では天体の動きの測定が詳細に解説されています。
セボフトはこの論文の前書きで、アストロラーベは真鍮製であると書き残しています。
イスラム圏や西方ラテン世界で発展する以前から、金属製のアストロラーベがビザンツ帝国の東方キリスト教圏で知られていたことが、この論文から伺えます。

イスラーム黄金時代

イスラム圏で魔改造

8世紀にイスラム圏でアッバース朝が成立すると、初期の指導者たちはギリシャ語やシリア語などの諸言語で書かれた学術書を積極的に翻訳し、イスラム圏へ導入していきました。
とりわけ天文学や占星術に関する文献の翻訳は盛んで、その中には当然アストロラーベが含まれました。

イスラム圏で最初にアストロラーベを作ったのは、8世紀のペルシャの数学者・アル=ファザーリ親子とされています。

8世紀のペルシャの学者・マーシャーアッラー(*740頃〜†815)は、アラビア語で初めてアストロラーベに関する論文を書きました。
この論文は後に「De Astrolabii Compositione et Ultilitate(アストロラーベの作成と使い方について)」というタイトルでラテン語に翻訳され、ヨーロッパに伝わりました。

イスラム圏に伝わったアストロラーベは、イスラム天文学の学者たちによって角度の目盛りや地平線上での方位角を示す円形の目盛りを追加されました。
そうして彼らはアストロラーベを、ナビゲーション目的やキブラ(カアバ神殿の方角)を割り出すために使用しました。
また、イスラムの人々は、太陽や恒星が地平線から昇る時間をアストロラーベで割り出して、サラート(イスラム教の礼拝の時間)の時間を決めたりもしました。
こうしてアストロラーベはイスラム圏で盛んに活用され、どんどん発展していきました。

現存するアストロラーベで製作年代がわかっている最古のものは、ヒジュラ暦315年(西暦927〜928年)のものです。
しかしイスラム圏では、カイロに住んでいた天文学者・アルフラガヌスが856年に書いたアストロラーベに関する論文がよく知られていました。

イスラム圏におけるアストロラーベの数学的下地は、シリアの天文学者・アル=バッターニー(*850頃〜†929)が書いた論文「Kitāb az-Zīj(天文表)」(920年頃)で確立されます。
(なお、この「Kitāb az-Zīj」は、12世紀にチボリのプラトによって「De Motu Stellarum(星々の動きについて)」というタイトルでラテン語に翻訳され、コペルニクスなど中世ヨーロッパの天文学者達に影響を与えていきます)

ペルシャ人の天文学者・アル=スーフィー(*903頃〜†986)は「Kitāb ‘Amal bi'l-Asṭurlāb(アストロラーベの使用の書)」で、天文学、占星術、ナビゲーション、測量、現在時刻の算出、サラート算出、キブラ算出など、アストロラーベの使用法を1000以上も挙げています。

11世紀から12世紀までにイスラム圏で制作されたアストロラーベは40基ほど現存しており、アストロラーベがイスラム圏で非常に使い込まれてきたことが分かります。

止まらない魔改造

イスラム圏の各地に伝わったアストロラーベは、それぞれの地で変化を遂げていきました。
ペルシャのアストロラーベはかなり複雑で、あるものは本物の芸術品にまで昇華しました。
イスラム圏東部(マシュリク)・北アフリカ(モロッコ)・スペイン(アル=アンダルス)のアストロラーベにも、それぞれに興味深い様式の違いが見られます。
インド・ムガル帝国で使われていたアストロラーベはもうちょっと雑なスタイルでした。

イスラム圏のアストロラーベは、様式以外にも激しく進化しました。

中世イスラム圏の天文学者と発明者たちは、「球面アストロラーベ」というアストロラーベと渾天儀の変種を生み出しました。
球面アストロラーベの最初の記述は9世紀のペルシャの数学者・アル=ナイリージー(892〜902に活躍)にまで遡ります。

11世紀のアンダルシアで活躍した天文学者・アッ=ザルカーリー(*1028〜†1087)は「ユニバーサル型アストロラーベ」を生み出しました。
ユニバーサル型アストロラーベとは、どの緯度でも使用できるアストロラーベです。
しかし、春分点と秋分点を通る経線(分点経線)上に天球を投影したユニバーサル型アストロラーベは、平面球形図のような直観的な魅力に欠け、また、作図が難しく操作も複雑だったことからそれほど人気は得られませんでした。

12世紀にはシャラフ・アッ=ディーン・アッ=トゥースィー(*1135頃〜†1213)が「線形アストロラーベ」(別名:staff of al-Tusial-Tusiの棒』)を発明しました。これは「照準器のない、目盛りの振られたシンプルな木製の棒で、錘のついた紐と、穴のあいたポインターを通る2本の紐がついていて、角度を測定できる」ものでした。

1235年には、イスファハンのアブー・バクルによって歯車のついた機械式アストロラーベが発明されました。

中世ヨーロッパ

キリスト教圏へ逆輸入

北アフリカ(モロッコ)のイスラム圏を経てイスラム統治下のスペイン(アル=アンダルス)に普及したアストロラーベは、やがてスペイン北部のキリスト教の修道院を通してヨーロッパへと伝えられました。

ヨーロッパで現存する最古の金属製アストロラーベは、10世紀のバルセロナで作られた真鍮製アストロラーベです。これは近年フランスの研究者によって発見され、現在はパリのアラブ世界研究所に所蔵されています。

なお、ヨーロッパで最初に使われたアストロラーベは、イスラム勢力下のスペインから輸入されたもので、元のアラビア語の横にラテン語が刻まれました。
現在の恒星の固有名にアラビア語が語源のものが多いのは、これらの輸入されたアストロラーベから影響を受けたものと思われます。

10世紀にオーリヤックのジェルベール(後のローマ教皇・シルウェステル2世・*950頃〜†1003)がアストロラーベをピレネー山脈の北に持ち込んだことはほぼ確実でした。
フランスのランスにあった学校では、11世紀に入る前までにアストロラーベがカリキュラム(自由七科)に組み込まれました。

11世紀のヨーロッパでは、キリスト教徒の知識人達がアラビア語の学術文献をラテン語やヘブライ語に盛んに翻訳していました。
そのためアストロラーベについても、この頃にはヨーロッパで情報を入手した人が現れ出します。

11世紀のライヒェナウ大修道院の修道院長・ヘルマヌス・コントラクトゥス(*1013〜†1054)は「De Mensura Astrolabii(アストロラーベでの測定について)」や「De utilitatibus astrolabii(アストロラーベの有用性について)」といった、アストロラーベに関する論文を書き残しました。

ラテン語で書かれたアストロラーベの優れた論文は、12世紀の終わりまでに少なくとも6つは存在し、13世紀には数百人の人間が読めたはずでしたが、13世紀〜14世紀のヨーロッパではアストロラーベはまだ珍しいものでした。

知識人たちによる注目

13世紀のフランスの科学者・ペトルス・ペレグリヌス(生没年不詳)は、13世紀後半に「Nova compositio astrolabii particularis(新式アストロラーベの設計)」というタイトルで、アッ=ザルカーリーのものとはまた別のタイプのユニバーサル型アストロラーベについて、製作法と使用法の論文を書きました。

イギリスの著作家・ジェフリー・チョーサー(*1343頃〜†1400頃)は、1391年頃、ルイスという少年に向けて「A Treatise on the Astrolabe(アストロラーベに関する論文)」(→ 和訳はこちら)」を編集しました。
これは主にマーシャーアッラーの論文を当時の口語でまとめた、当時としては画期的なものでした。

マーシャーアッラーの論文は、フランスの天文学者・占星術師・ペレリン・デ・プルッセ(14世紀に活躍)や、他の学者たちによって翻訳され、ヨーロッパに普及しました。

アストロラーベについて最初に印刷された本は、ボヘミアの天文学者・プラハティツェのクリスティアン(*1370〜†1439)による「De composicione astrolabii(アストロラーベの構造)」と「De utilitate (usu) astrolabii(アストロラーベの使用法)」でした。
これもマーシャーアッラーの論文によるとされますが、どちらかというと独自色の強いものでした。

大航海時代幕開けの重要人物で15世紀のポルトガル王子・エンリケ航海王子(*1394〜†1460)は、海上で緯度をより正確に計測する道具として、「balesilha」という単純化したアストロラーベの使用を船員達に推奨しました。

ヨーロッパでの隆盛と衰退

中世後期およびルネサンス期になると、アストロラーベはヨーロッパで広く使われるようになりました。

15世紀から16世紀のヨーロッパでは、アストロラーベは天文学教育の基本ツールの1つとして盛んに使われるようになりました。
当時、天文学の知識は基本教育と考えられており、アストロラーベを使いこなせることは良いしつけと教育の象徴でした。
しかしこの時代のアストロラーベは、天文学というよりは占星術に使われることが多かったようです。

ヨーロッパのアストロラーベ製作者たちは彫刻技術を駆使して、自分たちのアストロラーベに西洋占星術の情報を盛り込み、その時代に使われていたさまざまな時法を適用させました。

15世紀頃には、アストロラーベはドイツのアウグスブルクとニュルンベルクを中心に製作されました。他にはフランスでも製作されていました。

ヨーロッパで作られ出した頃のアストロラーベのほとんどは、設計者と製作者が同じ人物であった場合が多かったようです。
しかし特に美しいものは、設計者、彫刻家、装飾家からなるチームで作られていたことが知られています。

その後、ヨーロッパのアストロラーベ製作者は、数名の従業員とともに工房を開くようになりました。
職人のスタイルやレベルは工房の主人が定めていました。
主人の引退や死亡で工房が閉鎖されることもしばしばありました。

15世紀のフランスの天文観測器具作家・ジャン・フソリス(*1365頃〜†1436)は、パリの彼の店で、携帯日時計やその他の人気のあった科学器具とともにアストロラーベの製作と販売を始めました。
彼の製作したアストロラーベは13基が現存しています。

15世紀のヨーロッパの職人技による特殊な例としては、1420年にAntonius de Pacentoの設計でDominicus de Lanzanoが製作したアストロラーベが挙げられます。

ドイツの数学者でテュービンゲン大学の数学教授だったヨハネス・シュテッフラー(*1452〜†1531)は「Elucidatio fabricae ususque astrolabii(アストロラーベの製作・使用法マニュアル)」(1512年)を出版しました。
このマニュアルは、1620年までに16版も出版されるほど大変ポピュラーな参考文献となり、ヨーロッパでのアストロラーベの設計の基準ともなりました。
2007年には初の英語版が出版されています。

1525年頃に工房を開いたドイツの技術者・ゲオルグ・ハートマン(*1489〜†1564)は全く同じアストロラーベを4基製作しました。
これは「分業による一括生産」の最初期の証拠で、ハートマンは高品質なアストロラーベを作るため、明らかに計画生産を行っていました。

16世紀最高のアストロラーベはベルギーのルーヴェンで作られたものでした。
17世紀の中頃までに、アストロラーベはヨーロッパのいたるところで製作されるようになりました。

真鍮のアストロラーベはかなり高価なので、良いものを買えたのは裕福な人たちだけでした。
木製のアストロラーベも使われましたが、大きいものは反りがちで、真鍮のものよりも精度が劣りました。
しかし真鍮製のアストロラーベは同じサイズだと木製のものより重くなるため、大きいものとなるとナビゲーションには使えませんでした。
印刷技術が発達してくると、紙製のアストロラーベも使われるようになりました。

17世紀後半になって、振り子時計や望遠鏡といった正確な科学装置が発明されると、ヨーロッパでアストロラーベが使われることはだんだん減っていきました。
しかし特にアラブ世界では、19世紀に入ってもアストロラーベの製作が続けられました。

東洋への伝播

まずはイスラム圏のインドから

イスラム圏に導入されたアストロラーベは、各地を旅する学者たちによって、まずはインドにもたらされました。
14世紀のインドにあったトルコ系イスラム王朝・トゥグルク朝では、スルタンであるフィールーズ・シャー・トゥグルク(*1309〜†1388)がアストロラーベの製造を後押ししていました。

1370年には、ジャイナ教の天文学者・マヘンドラ・スーリ(*1340〜†1410)がサンスクリット語で初めてアストロラーベに関する論文を書いています。

また16世紀半ばには、北インドにあったムガル帝国で、2代目の皇帝・フマーユーン(*1508〜†1556)が治世に占星術を駆使し、アストロラーベを重用しました。
フマーユーンの元、現パキスタンのラホールでアストロラーベが盛んに製造されました。

その後のムガル帝国で、政治家であり科学者でもあったジャイ・シング2世(*1688〜†1743)が、インド北部のジャイプルに天文台・ジャンタル・マンタルを建設し、アストロラーベの製造方法についての書籍も執筆するなどしたことから、ジャイプルはアストロラーベ生産の一大拠点となりました。

ようやく漢字文化圏へ

アストロラーベは13世紀までに中国に伝わっていたことも分かっています。
1267年、イスラム出身の天文学者・ジャマールッディーン(〜†1301)はイラン西部のマラーゲ天文台で使用されていた様々な天文観測装置を持ち出し、クビライ(*1215〜†1294)に献上しました。
ベネツィアの冒険家・マルコ・ポーロ(*1254〜†1324)は、13世紀中に北京でアストロラーベを見たという記述を残しており、中世イングランドの騎士・ジョン・マンデヴィル(〜†1372)もまた、クビライの朝廷にあったアストロラーベのことを「東方旅行記」に記述しています。
ただし、こうした記録が残っているものの、この時のアストロラーベは中国の文化に根付くことはありませんでした。

16世紀末、イエズス会の数学者・クリストファー・クラヴィウス(*1538〜†1612)が書いたアストロラーベ解説書「Astrolabium」(1593年)を、中国の学者・李之藻(*1571〜†1630)とイエズス会宣教師・マテオ・リッチ(*1552〜†1610)が「渾蓋通憲図説」(1607年)というタイトルで漢文に翻訳し、アストロラーベを「渾蓋通憲」という名で東洋にもたらしました。
また、李之藻はイエズス会宣教師・サバティーノ・デ・ウルシス(*1575〜†1620)と共に「簡平儀説」(1611年)という書物を書き、東洋にユニバーサル型アストロラーベを紹介しました。

ちなみに航海用アストロラーベは南蛮貿易と共に日本へもたらされ、江戸時代初期(17世紀初頭)に「全円儀」や「イスタラビ」などという名前で呼ばれていました。
江戸時代初期の航海学者・池田好運(生没年不詳)は「元和航海記」(1618年成立)で、航海用アストロラーベのことを「アストロラビヨ」という名で書き残しています。

18世紀の朝鮮の詩人で実学者だった柳琴(*1741〜†1788)は、1787年に青銅製のアストロラーベを制作しました。
このアストロラーベは東洋で作られたものとしては唯一現存するもので、2002年頃に日本で発見され、現在は韓国の実学博物館に所蔵されています。

時計とアストロラーベ

初期の機械式天文時計はアストロラーベの影響を受けていました。
これらの天文時計は連続的に太陽、星、惑星の現在位置を表示するように設計されており、色々な点から時計仕掛けのアストロラーベとみなすことができました。
例えば、ウォリンフォードのリチャードの時計(1330年頃)は、本質的には固定されたレートの後ろで星図が回転するものであり、アストロラーベとよく似ています。

多くの天文時計は、有名なプラハの天文時計のようなアストロラーベ式の表示を使い、黄道面のステレオ投影を採用しています。

最近ではアストロラーベ腕時計がポピュラーになってきています。
例えば、スイスの時計技師・ルートヴィヒ・エークスリン博士(*1952〜)は1985年に、ユリス・ナルダンと共同でアストロラーベ腕時計「アストロラビウム・ガリレオガリレイ」を設計・製作しました。
オランダの独立時計師・クリスティアン・ファン・デル・クラウーも、1992年にアストロラーベ腕時計「アストロラビウム」を製作しています。