アストロラーベの歴史 | Luminareo

アストロラーベの歴史

2018-06-18

名前の由来

「アストロラーベ」という単語について、オックスフォード英語辞典によると「astrolabe」は「star-taker(星掴み)」と訳されており、語源はギリシャ語の「ἀστρολάβος」(ἄστρον『星』+ λαμβάνειν『掴む』)であると解説されています。

なお、アラビア語では「 ٱلأَسْطُرلابal-Asturlāb)」と表記され、現代のアラビア語テキストでは「語源はギリシア語の『星掴み』を直接翻訳した『 آخِذُ ٱلنُّجُومْākhdhu al-Nujuum)』が語源である」と説明されていますが、中世イスラム圏ではこの語源についていろいろ紛糾していた模様です。

アストロラーベは19世紀末までイスラム圏で発明されたと考えられており、その名の由来は長らく俗説で「Lab(イドリース(預言者エノク)の息子)の血統」だと伝えられていました。
9世紀の学者・アル=フワーリズミー(*780頃〜†850頃)はこの説を否定していますが、10世紀の学者・アル=クンミはこの説を支持しました。

11世紀前半に活躍した学者・アル=ビールーニー(*973〜†1048)は「占星術教程の書」の第4部で、「al-Asturlābとは、『星の鏡』という名前のギリシア人の器具だが、10世紀の歴史家・ハムザ・アル=イスファハーニー(*893頃〜†961以降)はこれをペルシャ語で『sitāra yāb あるいは setāre yāb(星を見つけるもの)』と説明した」と記述しています。

古典時代

アストロラーベ爆誕

最初期のアストロラーベは、ギリシャのヘレニズム期に発明されました。
発明者は、紀元前2世紀の天文学者・ヒッパルコス(*前190頃〜†前120頃)であると解説されることが多いです。
しかし、アストロラーベを発明したのは紀元前3世紀の数学者・ペルガのアポロニウス(*前262頃〜†前190頃)であって、ヒッパルコスはアストロラーベの製作に必要な「ステレオ投影」の考え方を改良し再定義しただけだという説があります。
なお、ステレオ投影の考え方自体は、ヒッパルコス以前から古代エジプトでも知られており、星図の作成に使われていました。

アストロラーベの原形と思しきものについて、紀元前1世紀のローマの建築家・ウィトルウィウス(*前80頃〜†前15頃)が書いた記述が、「建築書」の第9書第8章にあります。
それはエウドクソス(紀元前4世紀)あるいはアポロニウスが発明したとする、「照応時計(アナポリカ・anaphoric clock」という水で動く時計であり、その文字盤部分は、ステレオ投影により黄道・その土地の地平線・日中と夜間の不定時法の時間の線を描いたもの、つまり平面アストロラーベから恒星と地平座標を省いたものでした(→ 当該部分の和訳はこちら)。

アルマゲスト」で有名な1世紀の天文学者・プトレマイオス(*83頃〜†168頃)が書いた「Planisphaerium(平面天球図)」は、現存する最古のステレオ投影の解説書ですが、その14章の冒頭に「ホロスコープの器具(horoscopium instrumentum)」という名でアストロラーベの前身のことが記されています。
プトレマイオスとアストロラーベについては、「アルマゲスト」5巻に出てくるアストロラーベは現在のものとは違い、アーミラリ天球儀型の観測器具を意味します。
対して、「テトラビブロス」3巻2章に記された「ホロスコープ・アストロラーベ(ἀστρολάβων ὡροσκοπίων)」は現在の平面アストロラーベのことであるという説があります。

何はともあれこの頃のアストロラーベは、理論上まだ改善の余地があるなど、まだ現在に伝わるような形にはまとまっていなかったと考えられます。
それでもステレオ投影を応用し、星図にディオプトラ(照準儀)を結びつけることで生み出されたアストロラーベは、初期の天文学である球面天文学で、何種類もの問題を効率よく解決できる便利な計算器具でした。

平面アストロラーベの登場

4世紀のエジプトの天文学者・アレクサンドリアのテオン(*335頃〜†405頃)が、アストロラーベについて詳細な論文を書いたと伝えられています。

このテオンの娘で数学者・天文学者のヒュパティア(*360頃〜†415)は、(平面)アストロラーベを発明したと言われることが非常に多いですが、これはいささか誤認であり、実際には平面アストロラーベそのものは前述のように、ヒュパティアが生まれる以前、少なくとも500年前から使用されていました。
この「ヒュパティアがアストロラーベを発明した」という誤解は、ヒュパティアが生徒のシュネシオス(*373頃〜†413頃)に手紙を送って平面アストロラーベの作り方を解説していたことから生まれたようです。
ヒュパティアが平面アストロラーベを一番最初に考え出したことを示す具体的な証拠は特にありません。

とはいうものの、現存するシュネシオスの手紙によると、それまでの平面アストロラーベはステレオ投影が精密なものではなかったらしいことが伺えます。
シュネシオスはこの手紙で、「ヒッパルコスはステレオ投影でアストロラーベに恒星を盛り込み夜でも時刻を計れるようにしただけであり、プトレマイオスはアストロラーベの改良はしなかった」と述べています。
ステレオ投影の手法を整理し、平面アストロラーベを現代まで伝わる形のものに洗練させたのはヒュパティアとその弟子たちだったということは言って良いかもしれません。

ところでアレクサンドリアのテオンは、あのアレクサンドリア図書館の最後の図書館長でもありました。
そしてヒュパティアはキリスト教徒から迫害を受けて虐殺され、アレクサンドリア図書館もまた異教の教えを取り扱うものとしてキリスト教徒に破壊し尽くされました。
アストロラーベについてのテオンの論文や、ヒュパティアの手紙や著作は今では散逸してしまいましたが、シュネシオスがアストロラーベについて書いた手紙の1つ「Ad Paeonium de dono astrolabii(パエオニウスへの贈り物について)」(→ 和訳はこちら)は現代に伝わっています。

そして東方へ…

しかしその後アストロラーベは、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)のギリシア語圏で使われ続けました。

550年頃、アレクサンドリアの思想家・ヨハネス・ピロポノス(*490頃〜†570頃)が、アストロラーベに関する論文「De usu astrolabii eiusque constructione(アストロラーベの使用法および構造について)」をギリシャ語で書きました(→ 和訳はこちら)。
アストロラーベを解説したものとしては、この論文が現存する最も古い文献です。

また、650年頃に、メソポタミアのニシビス近郊に住んでいた東方キリスト教会(東方諸教会)の主教・セウェロス・セーボーフト(*575〜†667)が、テオンの論文を元にしてシリア語で書いた、アストロラーベについての論文(→ 英訳からの和訳 / 解説付き仏訳からの和訳)が現存しています。
このセーボーフトの論文は前書きと25章からなり、天体の動きの測定が詳細に解説されているほか、前書きには「真鍮製のアストロラーベ…」と明記されています。
後世のイスラム圏や西方ラテン世界では、木製(さらに時代が下れば紙製)のアストロラーベも盛んに作られたようですが、その遥か以前のビザンツ帝国・東方キリスト教圏で金属製アストロラーベが知られていたことが、この論文から伺えます。

ところで現在のトルコとシリアの国境にあるメソポタミアの古都・ハッラーンに住む人々は古代から月神や星辰を信仰する独特な宗教を持っていました。
このハッラーンはセーボーフトの住んでいたニシビス近郊にも程近く、もちろんこの地にもギリシア哲学やアストロラーベが伝播して惑星や恒星の研究がなされていました。
ハッラーンの地は7世紀半ばにイスラム圏の支配下に組み込まれますが、住人たちはこの地でしばらく独自の信仰を保っていました。
ところが830年に彼らは、アッバース朝のカリフ・マアムーンから「啓典の民」へ改宗するかジハードの対象となるかを迫られ、その多くはイスラム教やキリスト教へ改宗してしまいました。
しかし一部の住民は、その啓典の民の一つだが実態がなくなっていた「サービア教徒」を自称してこれをやり過ごし、従来の星辰信仰を密かに守りつつもイスラム圏に溶け込んで、天体に関する研究をイスラム圏に伝えていきました。

イスラーム黄金時代

イスラム圏で魔改造

8世紀にイスラム圏でアッバース朝が成立すると、初期の指導者たちはギリシャ語やシリア語などの諸言語で書かれた学術書を積極的に翻訳し、イスラム圏へ導入していきました。
(おそらく上記の自称サービア教徒の影響から)とりわけ天文学や占星術に関する文献の翻訳は盛んでした。
そしてムスリムたちが最初にアストロラーベに出会ったのは8世紀中頃のハッラーンでした。

イスラム圏で最初にアストロラーベを作ったのは、8世紀のペルシャの数学者・アル=ファザーリ親子(父:†777、子:†796もしくは806)とされています。
(なお、現存するアストロラーベで製作年代がわかっている最古のものは、ヒジュラ暦315年(西暦927〜928年)のものです)

8世紀のペルシャの学者・マーシャーアッラー(*740頃〜†815)は、アラビア語で初めてアストロラーベに関する論文を書きました。
この論文は後に「Compositio et Operatio Astrolabii(アストロラーベの設計法・操作法)」(→ 英訳版はこちら)というタイトルでラテン語に翻訳され、ヨーロッパに伝わりました。
しかしイスラム圏では、カイロに住んでいた天文学者・アルフラガヌスが856年に書いたアストロラーベに関する論文がよく知られていました。

イスラム圏に伝わったアストロラーベは、イスラム天文学の学者たちによって角度目盛りや等方位角線が追加されました。
そうして彼らはアストロラーベを、ナビゲーション目的やキブラ(カアバ神殿の方角)を割り出すために使用しました。
また、イスラムの人々は、太陽や恒星が地平線から昇る時間をアストロラーベで割り出して、サラート(イスラム教の礼拝の時間)の時間を決めたりもしました。
こうしてアストロラーベはイスラム圏で盛んに活用され、どんどん発展していきました。

そしてイスラム圏におけるアストロラーベの数学的下地は、シリアの天文学者・アル=バッターニー(*850頃〜†929)が書いた論文「Kitāb az-Zīj(天文表)」(920年頃)で確立されます。
(この「Kitāb az-Zīj」は、12世紀にチボリのプラトによって「De Motu Stellarum(星々の動きについて)」というタイトルでラテン語に翻訳され、コペルニクスなど中世ヨーロッパの天文学者達に影響を与えていきます)

ペルシャ人の天文学者・アッ=スーフィー(*903〜†986)は、「Kitāb ‘Amal bi'l-Asṭurlāb(アストロラーベの使用の書)」で、天文学・占星術・ナビゲーション・測量・現在時刻の算出・サラート算出・キブラ算出などといったアストロラーベの使用法を1760章にわたってまとめたと伝えられます。
しかし、この論文は現存するのは170章の短いバージョンだそうで、その英訳が2006年にパリ大学で受理された、フローラ・ヴァフィア(*1958〜)の博士論文の中にあるようです。

11世紀から12世紀までにイスラム圏で制作されたアストロラーベは、真鍮製のものが40基ほど現存しており、アストロラーベがイスラム圏で非常に使い込まれてきたことが分かります。

止まらない魔改造

イスラム圏の各地に伝わったアストロラーベは、それぞれの地で変化を遂げていきました。
ペルシャのアストロラーベはかなり複雑で、あるものは本物の芸術品にまで昇華しました。
イスラム圏東部(マシュリク)・北アフリカ(モロッコ)・スペイン(アル=アンダルス)のアストロラーベにも、それぞれに興味深い様式の違いが見られます。
インド・ムガル帝国で使われていたアストロラーベはもうちょっと雑なスタイルでした。

イスラム圏のアストロラーベは、様式以外にも激しく進化しました。

中世イスラム圏の天文学者と発明者たちは、「球面アストロラーベ」というアストロラーベと渾天儀の変種を生み出しました。
球面アストロラーベの最初の記述は9世紀のペルシャの数学者・アル=ナイリージー(892〜902に活躍)にまで遡ります。

11世紀のアンダルシア・トレドで活躍した天文学者・アッ=ザルカーリー(*1028〜†1087)は「ユニバーサル・アストロラーベ(サフェア・アルザケリス型)」を生み出しました。
ユニバーサル・アストロラーベとは、ティンパンの入れ替えが不要でどの緯度でも使用できるアストロラーベです。
しかし、天球を分至経線(夏至点・冬至点・両極を通る大円)に投影したサフェア・アルザケリスは、平面アストロラーベの持つ直観的な魅力に欠け、また、作図が難しく操作も複雑だったことからそれほど人気は得られませんでした(→ サフェア・アルザケリスの使い方はこちら)。

12世紀にはシャラフ・アッ=ディーン・アッ=トゥースィー(*1135頃〜†1213)が「線形アストロラーベ」(別名:staff of al-Tusial-Tusiの棒』)を発明しました。これは「照準器のない、目盛りの振られたシンプルな木製の棒で、錘のついた紐と、穴のあいたポインターを通る2本の紐がついていて、角度を測定できる」ものでした。

1235年には、イスファハンのアブー・バクルによって歯車のついた機械式アストロラーベが発明されました。

中世ヨーロッパ

キリスト教圏へ逆輸入

北アフリカ(モロッコ)のイスラム圏を経てイスラム統治下のスペイン(アル=アンダルス)に普及したアストロラーベは、やがてスペイン北部のキリスト教の修道院を通してヨーロッパへと伝えられました。

ヨーロッパで現存する最古の金属製アストロラーベは、10世紀のバルセロナで作られた真鍮製アストロラーベです。これは近年フランスの研究者によって発見され、現在はパリのアラブ世界研究所に所蔵されています。

なお、ヨーロッパで最初に使われたアストロラーベは、イスラム勢力下のスペインから輸入されたもので、元のアラビア語の横にラテン語が刻まれました。
現在の恒星の固有名にアラビア語が語源のものが多いのは、これらの輸入されたアストロラーベから影響を受けたものと思われます。

10世紀にオーリヤックのジェルベール(後のローマ教皇・シルウェステル2世・*950頃〜†1003)がアストロラーベをピレネー山脈より北へと持ち込んだことはほぼ確実でした。
フランスのランスにあった学校では、11世紀に入る前までにアストロラーベがカリキュラム(自由七科)の中に組み込まれました。

11世紀のヨーロッパでは、キリスト教徒の知識人達がアラビア語の学術文献をラテン語やヘブライ語に盛んに翻訳していました。
そのためアストロラーベについても、この頃にはヨーロッパで情報を入手した人が現れ出します。

11世紀のライヒェナウ大修道院の修道院長・ヘルマヌス・コントラクトゥス(*1013〜†1054)は「De mensura astrolabii(アストロラーベでの測定について)」や「De utilitatibus astrolabii(アストロラーベの有用性について)」といった、アストロラーベに関する論文を書き残しました。

ラテン語で書かれたアストロラーベの優れた論文は、12世紀の終わりまでに少なくとも6つは存在し、13世紀には数百人の人間が読めたはずでしたが、13世紀〜14世紀のヨーロッパではアストロラーベはまだ珍しいものでした。

知識人たちによる注目

13世紀のフランスの科学者・ペトルス・ペレグリヌス(生没年不詳)は、13世紀後半に「Nova compositio astrolabii particularis(新式アストロラーベの設計)」というタイトルで、ザルカーリーのものとはまた別のタイプのユニバーサル・アストロラーベについて、製作法と使用法の論文を書きました。

イギリスの詩人・ジェフリー・チョーサー(*1343頃〜†1400頃)は、1391年頃、ルイスという少年に向けて「A Treatise on the Astrolabe(アストロラーベに関する論文)」(→ 和訳はこちら)を編集しました。
これは主にマーシャーアッラーの論文を当時の口語でまとめた、当時としては画期的なものでした。

マーシャーアッラーの論文は、フランスの天文学者で占星術師のペレラン・ド・プリュス(14世紀に活躍)や、他の学者たちによって翻訳され、ヨーロッパに普及しました。

アストロラーベについて最初に印刷された本は、ボヘミアの天文学者・プラハティツェのクリスティアン(*1370〜†1439)による「De composicione astrolabii(アストロラーベの構造)」と「De utilitate (usu) astrolabii(アストロラーベの使用法)」でした。
これもマーシャーアッラーの論文によるとされますが、どちらかというと独自色の強いものでした。

そして、大航海時代幕開けの重要人物で15世紀のポルトガル王子・エンリケ航海王子(*1394〜†1460)は、海上で緯度をより正確に計測する道具として、「balesilha」という単純化したアストロラーベの使用を船員達に推奨しました。
(注:このbalesilhaについては英語版Wikipediaの「Astrolabe」項の記述を元にしたが、もしかするとこれはbalestilhaヤコブの杖)のミススペルで、典拠となった文献の誤認かもしれない)

なお、ポルトガル王に仕えたドイツ人天文学者・探検家のマルティン・ベハイム(*1459〜†1507)が、1484年頃にアストロラーベを航海用に改良したと言われています。
(注:オマーン沖アルハラニヤ島にあるソドレ沈没船遺跡(ヴァスコ・ダ・ガマ艦隊の一隻で1503年に沈没したエスメラルダ号)より、1496年から1501年の間に制作されたと推定される、ポルトガル王家の紋章があしらわれた航海用アストロラーベが発見され、現存最古の航海用アストロラーベであることが判明した

ヨーロッパでの隆盛と衰退

中世後期およびルネサンス期になると、アストロラーベはヨーロッパで広く使われるようになりました。

15世紀から16世紀のヨーロッパでは、アストロラーベは天文学教育の基本ツールの1つとして盛んに使われるようになりました。
当時、天文学の知識は基本教育と考えられており、アストロラーベを使いこなせることは良い教育と教養の象徴でした。
しかしこの時代のアストロラーベは、天文学というよりは占星術に使われることが多かったようです。

ヨーロッパのアストロラーベ製作者たちは彫刻技術を駆使して、自分たちのアストロラーベに西洋占星術の情報を盛り込み、その時代に使われていたさまざまな時法を適用させました。

15世紀頃には、アストロラーベはドイツのアウグスブルクとニュルンベルクを中心に製作されました。他にはフランスでも製作されていました。

ヨーロッパで作られ出した頃のアストロラーベのほとんどは、設計者と製作者が同じ人物であった場合が多かったようです。
しかし特に美しいものは、設計者、彫刻家、装飾家からなるチームで作られていたことが知られています。

その後、ヨーロッパのアストロラーベ製作者は、数名の従業員とともに工房を開くようになりました。
職人のスタイルやレベルは工房の主人が定めていました。
主人の引退や死亡で工房が閉鎖されることもしばしばありました。

15世紀のフランスの天文観測器具作家・ジャン・フソリス(*1365頃〜†1436)は、パリの彼の店で、携帯日時計やその他の人気のあった科学器具とともにアストロラーベの製作と販売を始めました。
彼の製作したアストロラーベは13基が現存しています(フソリスの製作によるアストロラーベ)。

15世紀のヨーロッパの職人技による特殊な例としては、Antonius de Pacentoの設計によりDominicus de Lanzanoが1420年に製作したアストロラーベが挙げられます。

ドイツの数学者でテュービンゲン大学の数学教授だったヨハネス・シュテッフラー(*1452〜†1531)は「Elucidatio fabricae ususque astrolabii(アストロラーベの製作・使用法マニュアル)」(1512年)を出版しました。
このマニュアルは、1620年までに16版も出版されるほど大変ポピュラーな参考文献となり、ヨーロッパでのアストロラーベの設計の基準ともなりました。
2007年には初の英語版が出版されています。

1525年頃に工房を開いたドイツの技術者・ゲオルク・ハートマン(*1489〜†1564)は全く同じアストロラーベを4基製作しました。
これは「分業による一括生産」の最初期の証拠で、ハートマンは高品質なアストロラーベを作るため、明らかに計画生産を行っていました(ハートマンの製作によるアストロラーベ)。

16世紀最高のアストロラーベはベルギーのルーヴェンで作られたものでした。
17世紀の中頃までに、アストロラーベはヨーロッパのいたるところで製作されるようになりました。

真鍮製のアストロラーベは大変高価で、良いものを買えたのは裕福な人たちだけでした。
現存数が極めて少ないものの、実際は木製のアストロラーベも広く使われていたようです。
しかし大きさのある木製アストロラーベは反りがちで、真鍮製のものよりも精度が劣りました。
とは言え真鍮製のアストロラーベは、同サイズだと木製のものより重くなるため、大きいものとなるとナビゲーションには使えないという難点もありました。
印刷技術が発達してくると、紙製のアストロラーベも使われるようになりました。

17世紀後半になって、振り子時計や天体望遠鏡といった正確な科学装置が発明されると、ヨーロッパでアストロラーベが使われることは急速に減っていきました。
しかし、特にアラブ世界では、19世紀に入ってもアストロラーベの製作が続けられました。

東洋への伝播

まずはイスラム圏のインドから

イスラム圏に導入されたアストロラーベは、各地を旅する学者たちによって、まずはインドにもたらされました。
14世紀のインドにあったトルコ系イスラム王朝・トゥグルク朝では、スルタンであるフィールーズ・シャー・トゥグルク(*1309〜†1388)がアストロラーベの製造を後押ししていました。

1370年には、ジャイナ教の天文学者・マヘンドラ・スーリ(*1340〜†1410)がサンスクリット語で初めてアストロラーベに関する論文を書いています。

また16世紀半ばには、北インドにあったムガル帝国で、2代目の皇帝・フマーユーン(*1508〜†1556)が治世に占星術を駆使し、アストロラーベを重用しました。
フマーユーンの元、現パキスタンのラホールでアストロラーベが盛んに製造されました。

その後のムガル帝国で、政治家であり科学者でもあったジャイ・シング2世(*1688〜†1743)が、インド北部のジャイプルに天文台・ジャンタル・マンタルを建設し、アストロラーベの製造方法についての書籍も執筆するなどしました。そのためジャイプルはアストロラーベ生産の一大拠点となりました。

ようやく漢字文化圏へ

アストロラーベは13世紀までに中国に伝わっていたことも分かっています。
「元史」巻48(天文史)には、1267年にイスラム出身の天文学者・ジャマールッディーン(〜†1301)が、イラン西部のマラーゲ天文台で使用されていた7種類の天文観測装置をクビライ(*1215〜†1294)に献上したことが記録されており、その中に「兀速都兒剌不(usṭurlābの音訳)」としてアストロラーベが挙がっています。
ベネツィアの冒険家・マルコ・ポーロ(*1254〜†1324)による「東方見聞録」の一部の写本には、13世紀の北京にあったというアストロラーベの記述があります。
中世イングランドの騎士・ジョン・マンデヴィル(〜†1372)もまた、クビライの朝廷にあったアストロラーベのことを「東方旅行記」に記述しています。
ただし、こうした記録が残っているものの、この時のアストロラーベは中国の文化に根付くことはありませんでした。

16世紀末、イエズス会の数学者・クリストファー・クラヴィウス(*1538〜†1612)が書いたアストロラーベ解説書「Astrolabium」(1593年)を、中国の学者・李之藻(*1571〜†1630)とイエズス会宣教師・マテオ・リッチ(*1552〜†1610)が「渾蓋通憲図説」(1607年)というタイトルで漢文に翻訳し、アストロラーベを「渾蓋通憲儀」という名で東洋にもたらしました。
また同時期にイエズス会宣教師・サバティーノ・デ・ウルシス(*1575〜†1620)は、中国の暦数学者・徐光啓(*1562〜†1633)と共に「簡平儀説」(1611年)という書物を書き、ロハス型のユニバーサル・アストロラーベを東洋に紹介しました。

ちなみに航海用アストロラーベは南蛮貿易と共に日本へもたらされ、江戸時代初期(17世紀初頭)に「全円儀」や「イスタラビ」などという名前で呼ばれていました。
江戸時代初期の航海学者・池田好運(生没年不詳)は「元和航海記」(1618年成立)で、航海用アストロラーベのことを「アストロラビヨ」という名で書き残しています。

18世紀の朝鮮の詩人で実学者だった柳琴(*1741〜†1788)は、1787年に青銅製のアストロラーベを制作しました。
このアストロラーベは東洋で作られたものとしては唯一現存するもので、同志社大学の宮島一彦教授によって2002年頃に日本で発見され、現在は韓国の実学博物館に所蔵されています。

天文時計とアストロラーベ

時間をどうやって計るかということは太古よりいろいろ工夫されてきましたが、歯車と脱進機(歯車を一定方向に回す装置)による時計が登場するのは11世紀のアル=アンダルスでした。
この時代になると天文学者たちはもちろんアストロラーベを当たり前に使っていたので、時計の技術でアストロラーベを自動的に動かし、礼拝の時刻の告知や天文観測に役立てようという発想が起こるのはいたって自然な流れと言えました。

ヨーロッパで機械式時計がどのように導入されていったのかは定かではありませんが、13世紀ごろには連続的に太陽、星、惑星の現在位置を表示するように設計された天文時計が街に建設されていきました。
これらの天文時計はアストロラーベの影響を強く受けており、中にはほぼ「時計仕掛けのアストロラーベ」と言えるものさえありました。

例えば、1330年頃に建設され今は失われたウォリンフォードのリチャードの時計は、本質的には固定されたレートの後ろで星図が回転するもので、アストロラーベにとてもよく似ていました。
またプラハの天文時計(1410年)も非常に有名な天文時計で、こちらもアストロラーベ式の表示が使われており、黄道面のステレオ投影が採用されています。

近年ではアストロラーベを腕時計に組み込んだものが生み出されています。
例えば、スイスの時計技師・ルートヴィヒ・エークスリン博士(*1952〜)は1985年に、ユリス・ナルダンと共同でアストロラーベ腕時計「アストロラビウム・ガリレオガリレイ」を設計・製作しました。
オランダの独立時計師・クリスティアン・ファン・デル・クラウーも、1992年にアストロラーベ腕時計「アストロラビウム」を製作しています。