キュレネのシュネシオス(Synesius of Cyrene)「アストロラーベについて(On an Astrolabe)」について
4世紀から5世紀初頭の新プラトン主義の哲学者・キュレネのシュネシオス(*373頃〜†413頃)が、アストロラーベについて書いたエッセイの英訳を、日本語に訳しました。
今に伝わる形のアストロラーベについて書かれた文章としては、おそらく現存最古のものじゃないじゃと思います。
シュネシオスは古代リビアのキュレネ近郊の貴族の家に生まれました。
393年にアレクサンドリアに出て新プラトン主義に傾倒し、ヒュパティア(*360頃〜†415)に師事して数学と哲学を学び、その後は故郷に戻って土地の有力者として過ごしました。
知識人としても知られた実に有力者だったようで、398年にはキュレネと周辺地域全体を代表して東ローマ帝国の皇帝・アルカディウス(377頃〜†408)に演説をしに行ったりしています。
晩年にはキリスト教会に推挙されて、妻とは別れないことと新プラトン主義の思想を放棄しないことの2つを条件に、(だいぶ不本意ながら)プトレマイスの司教に任命されました。
初期キリスト教の司教として名を残したシュネシオス
ですが、初期のギリシャ錬金術師にも数えられる人物として、多方面の分野におよぶ文書や書簡を残しました。
そしてシュネシオスは手紙でヒュパティアにアストロラーベの作成方法について尋ねていたことがわかっていますが、ヒュパティアとのそのやりとりの書簡は残念ながら現存していないようです。
この翻訳の元となった文書は、シュネシオスがコンスタンティノープルで知り合ったパエオニウスという将校に、改良作と思しきアストロラーベを贈った際に一緒に付けた手紙で、原題を「Προς Παιόνιον περί του δώρου『パエオニウスへの贈り物について』(ラテン語:Ad Paeonium de dono astrolabii)」といいます。
原文はギリシア語ですね……特に1850年にミュンヘンで出版された「Synesii Cyrenaei quae exstant opera omnia(シュネシオス著作集)」のうちオーストリア国立図書館所蔵のものがインデックスが効いてて参照が楽なのと、テキストとしては原文まるっと掲載されてるサイトがありますので、古代ギリシア語イケる方はよろしければちょっと頑張ってみていただければと思います。
瀬野はラテン語ならまだしもギリシア語は本当に It's all Greek to me なので、英訳されたものから重訳しましたので悪しからず……。
ちょっと注意なのがこの文書、アストロラーベのパーツ解説とか具体的な使い方とかは書かれてません。
なにしろ前半はずっとアストロラーベ関係ない話が続いていて、それがだいたい「世の中みんなガチ哲学をわかっとらん」「文武両道クッッッソ大事」「俺らが理解される日はきっと来る」の3本という感じ……逆転狙いニートかお前ら。後半戦になってようやくアストロラーベの話が始まります。
しかし肝心のアストロラーベの自体の説明はどうも貧弱で、これについてドイツ語版Wikipediaのシュネシオス項には「シュネシオス本人はアストロラーベの機能についての理解が貧弱だった。ヒュパティアの父・アレクサンドリアのテオン(*335頃〜†405頃)がアストロラーベの詳しい論文を書いていたのに、その存在を知らなかった」などとボロクソ書かれていて、ちょっとしょっぱい気分になれます。
とはいえ何とか読んでみると、アストロラーベ自体はもっと以前から存在していたと読めるものの、ステレオ投影を現在に伝わる形にまで洗練させてアストロラーベに落とし込んだのはヒュパティアとその弟子たちであり、またアストロラーベに装飾を施したのも自分たちが最初だと言わんばかりの書き振りです。
「アストロラーベはヒュパティアが発明した」と誤認されることが多いですが、ヒュパティア一派が行なったのは、発明したとは言わないまでもそれに匹敵するレベルの、ステレオ投影の仕方や製図方法などの大胆リニューアルだったのかもしれません。
しかし現代でこそ座標平面と三角関数を使って理論展開するわけですが、よく考えたらこの時代、その2つ全く無しの幾何学のみで天球や地平座標を平面にどう投射するか考えてたわけですよ。いやちょっと追検証したくないわ。
底本にしたのは、1926年に刊行されたオーガスティン・フィッツジェラルド(*1862〜†1930)による英訳本「The Letters of Synesius of Cyrene」です。
解説等はこちらのサイトを参考にしました。
本文
Synesius of Cyrene,
On an Astrolabe
in The Letters of Synesius of Cyrene, Oxford University Press (1926)
Translated by Augustine Fitzgerald
アストロラーベについて
「The Letters of Synesius of Cyrene」(1926)より
オーガスティン・フィッツジェラルド 訳
I heard you recently expressing indignation on behalf of philosophy, and asking whether there could be any limit to the impiety of men towards it, again lamenting that it had encountered evil and harsh fortune, for that those who falsely pretend knowledge of it, by their continual charlatanism enjoy a good reputation with the ruling class and the people alike.
But the true philosophers are discredited, and are honored only with the Carian portion.
哲学の知識を偽る者たちが、度重なる知ったかぶりで民衆たちのみならず支配階級からも高い評価を受けているという理由から、あなたが哲学を代表して憤慨を露わにし、哲学に向かう人々の無礼さに限度はないのかと問いかけ、また哲学が邪悪で厳しい運命に遭遇したと嘆いているということを私は最近耳にした。
しかし真の哲学者たちは疑われ、カリア地方のようにひどく軽蔑されている。
I admired your outburst, for it proceeded from a really noble nature.
For all that, one need not be angry when what is only logical is taking place, and it is quite logical that every man should attain what he has busied himself with, and worked for, and again should not attain those things the which he never struggled for, nor took thought how they might be his.
If therefore, one man has set his mind on becoming wise, and another upon only seeming so, each one will possess that which befits him, the one in being wise, the other in merely appearing to be wise.
Now truly, they would suffer grievously — those who are in pursuit of a reputation for the false, not the real philosophy — and would indeed be quite justly angered, if those who desired the other kind should be found in possession of both, and they themselves in possession of neither!
And this in spite of the fact that they have cultivated the easier thing with no less care than their rivals, in order to deceive those who know nothing of the very matters in which they are deceived.
Let such men, accordingly, be shining lights, let them be crowned in the theaters if they so desire; for having been deserters from the cause of Truth, they are disputing over its name only.
あなたの激昂は本当に気高い天性から現れたものなので、私は感心した。
全く、論理的なことだけが起きているならば怒る必要などなく、すべての人は己の精魂を傾けて、勤しんできたことを成し遂げるべきであり、そしてまた決して悪戦苦闘しなかったことや、どうやって己のものとするかよくよく考えてもこなかったことを成し遂げるべきではないというのは、極めて合理的なことである。
だから、ある人物は賢明になろうと決心し、別の人物はただそう見せかけるだけにしようと決心したならば、彼らはそれぞれにふさわしいものを得る、つまり片方は賢明になり、もう片方はただ賢明そうに見えるだけとなるだろう。
さて本当のところ、彼ら――真の哲学ではなく、嘘によって名声を求める者ども――は、もしもう片方のあり方を求めた人たちがその両方を手に入れ、彼ら自身はどちらも得ていないことを知ったならば、酷い苦しみを受け、実際まったく当然ながら怒りを向けられるであろう!
それは彼らが、自分たちが騙されているとは何ひとつ知らない者たちを欺くべく、競争相手にも劣らぬ注意を払ってもっと簡単なことを培ってきたにもかかわらず、である。
従ってこのような輩は、もしも彼らが望むなら、輝かしい光として、劇場で戴冠させてやろう。
彼らは真理の大元を見棄てた者たちであり、真理の名のみを議論しているだけだからである。
Now as to us, who are of but slight importance, it is evident that you desire to include me amongst the elect, and it was largely on my account that you were so incensed at the present state of philosophy.
Treated though we are, therefore, with disregard by other men, we should nevertheless be pleased at the rank into which we have been marshaled by ourselves.
Let us not be envious of these half-instructed ones, nor esteem them happy when they are praised to the skies by those who have no education whatever, for they who are not purified may not see the beauty of the purified soul, and the heralding abroad of oneself and the doing of all things for display is the part not of wisdom but of sophistry.
Wherefore it may be properly said by those who share not in such honor as the multitude can confer, "I need not this honor, but I seek to be honored by the destiny of Zeus", to rejoice and be of great joy that I have met with a man who possesses both sagacity and power, for thus only shall we not be counted with the unworthy, nor be esteemed utterly without honor.
さて、全く重要人物ではない我々としては、あなたが私を選ばれた者たちの中に加えたいと望んでいるのは明らかであり、あなたが哲学の現状にあのように激昂していたのは主に私のためだったのだ。
だから我々は、他の人々から無視して扱われているとはいえ、それにかかわらず我々自身の手で推し進めてきた地位を喜ぶべきだ。
清められていない者たちは清められた魂の美しさを見ることはなく、自分自身を宣伝して全ての行為を見せびらかすことは知恵ではなくて詭弁の一部なのだから、このような中途半端な教育を受けた者たちを羨んだり、何の教育も受けていない者たちから彼らが持ち上げられていても彼らを幸せとみなしたりするのは止めようではないか。
それゆえに群衆が与えるような名声に浴しない人々は、私が聡明さと能力を併せ持つ人物に出会えたことを祝し大いに喜んで、「私にこの名声は必要ない、ゼウスが運命付けた名声を求めるのだ」(訳注:ホメーロス「イーリアス」第9歌608行)と適切に言うだろう。
かくして我々は無価値な者として数えられることもなければ、完全に名声がないとみなされることもないのだから。
How shall I fail to keep the most intimate spot in my heart for the admirable Paeonius, he who has found means of restoring and binding to each other philosophy and military science, so long walled away from each other by many ramparts, and has detected the affinity which aforetime existed between these pursuits!
称賛すべきパエオニウスを私はどうして我が心の最も深い場所から追い出すことができようか。
彼は、長い間それぞれ数多の城壁によって囲まれていた哲学と軍事学を、修復して互いに結びつける方法を発見し、その追求の間にかつて存在した類似性を見つけ出したのだ!
For when Italy in bygone days possessed the same men as pupils of Pythagoras and governors of cities, it was called Magna Graecia, and rightly so.
Of these men Charondas and Zaleucus gave laws, the Archytae and the Philolai were masters of the field.
The greatest of astronomers ruled over a city, and was an ambassador, besides taking other parts in political life, Timaeus himself, on whose authority Plato discourses to us concerning the universe.
Having been entrusted with these communities, as late as the ninth generation after Pythagoras they preserved Italy in prosperity, and as to the Eleatic School at Athens, letters and arms were pursued by it with equal honor for both.
ピタゴラスの弟子たちや都市の総督といった人々がいた行き去りし日のイタリアは、マグナ・グラエキアと呼ばれたが、正しくその通りであった。
これらの人々のうち、カロンダスとザレウコスは法律を制定し、アルキタスとピロラオスはこの分野の巨匠だった。
天文学者の中で最も偉大な者は都市を治め、大使でもあり、政治活動で他の役割も果たした上に、ティマイオス自身、その出典であるプラトンは宇宙について私たちに講義した。
こういった社会に委ねられて、ピタゴラスの9代後に至るまで彼らはイタリアの繁栄を維持し、アテネのエレア派の学堂では、文と武の両道が等しく栄誉を持って探究された。
In the case of Zeno you would find it difficult to enumerate how many tyrannies he destroyed, always reinstating in their place a healthy form of city government.
Again, Xenophon taking command of those ten thousand, exhausted by sufferings and almost at the point of death, led them back from utmost confines of the Persian Empire, overcoming every obstacle in his way.
ゼノンの場合、彼がどれだけ僭主国を滅ぼし、常にその代わりに健全な形の市政を復活させたものか、数え上げるのは困難であろう。
また、クセノポンは、苦痛に苛まれてほとんど死の淵にあった1万の軍勢を指揮し、彼らをペルシャ帝国の最大級の猛攻から逃れさせ、行く手を遮るあらゆる障害を打ち破った。
And what can one say of this? — the succession of Dion to the monarchy of Dionysius, that kingdom which had enslaved the Greek cities in Sicily, those not the least in respect to power, and also the barbarians.
Even the will of the Carthaginians it bent, and it gained ground even on the coast of Italy.
Nay, it was against that kingdom that the lover and beloved of Plato collected a mercenary army and set sail for Sicily, embarking his whole fighting force on a single ship, and that a merchantman; and it was with such an equipment as this that Dionysius was driven out, and that Dion transformed the constitution, and restored the cities to the reign of law.
そしてこれは何と言うべきだろう?――シチリア島の都市国家たちを隷属させていた国である、ディオニュシオスの僭主国のディオンによる王位継承、これは全く権威を尊重したものではなく、野蛮人のものだった。
カルタゴ人の意志すらも曲げ、イタリアの海岸にまで足を掛けた。
否、それはプラトンに愛された恋人が傭兵部隊を集めてシチリアに向け、ただ1隻の船、それも商船に彼の全戦力と、その商人を乗せて出航した、かの僭主国への反乱だった。
そんな装備でディオニュシオスは追放され、ディオンは憲法を改め、都市を法の支配下に回復した。
Thus, in the past, philosophy and statecraft were united, and when they so went hand in hand, such were their achievements.
But, as in the case of other fair and hallowed things, with all of which Time has worked havoc, this double type, too, forsook the succeeding age, and separation of the function was reserved for posterity.
Surely it is not worth while to dwell on the destinies of man.
Is it not for this very reason that other good things also have deserted us?
For no greater misfortune could possibly befall cities than to have strength without intelligence, and intellect without power.
このように、過去には、哲学と政治手法は結合していて、そしてこれらがそうやって緊密に関係したとき、こういった功績となった。
しかし、時が台無しにしてきたこれ以外の全ての、美しく神聖なものごとの場合と同様に、この2つの分野もまた、次に続く時代を見放して、後世ではその作用は分断されてしまった。
確かに人間たちの運命をくどくどと考えていても得るものは何もない。
他の善いものごとたちもまた我々を見捨てたのは正にそれが理由なのではないだろうか?
というのも知性のない力と、力のない知性を持つことよりも大きな不幸が都市に降りかかることはあり得ないからだ。
Now you seem about to restore to us this duality of force, for you are entrusted with the management of public affairs, and at the same time you believe in the cultivation of philosophy.
Strike then, as it is a fair struggle in which you are engaged, on behalf of us and the Muses, so that no one may expel them from the market-place or the camp as unpractical and unworkable, as of no use for actions to be fought under the open sky, but merely pretty things for children to play with and to babble about.
あなたは公務の運営を任されており、そして同時に哲学を修めることを信じていることから、今あなたはこの力の2面性を取り戻そうとしているようだ。
ならば、空の下で戦っても何の役にも立たず、ただの子供の遊びやおしゃべりといった可愛らしい遊戯にしか過ぎないのだから、市場や駐留地が非現実的で実行不可能なものとして誰一人追い出されることにならないように、我々とムーサの神々に代わり、自分の携わる正当な戦いとして、一撃を下すのだ。
It is fitting that everyone of us should stretch out a hand to your assistance in so far as the power within him lies.
Thus you would be fashioned a wise man indeed, not a half-fulfilled or mutilated sage, as must be the case whenever a man is upheld by his natural bent only.
Well were it for a state to be governed by such men as this, and we should be the gainers thereby, courting honor for philosophy from men, while at the same time we should live a worthy moral life.
我々の皆があなたを助けるためにそれぞれの力の限り手を差し伸べるのは適切なことだ。
そうして、どんな時も必ず人間は生まれ持った気質のみに支えられているように、あなたは中途半端や骨抜きにされた知恵者ではない、本物の賢者になっていくだろう。
このような人々によって国が統治されるならば、我々はそこから利益を得て、人々から哲学の名声を集める者となる一方で、同時に立派で道徳的な人生を生きるだろう。
So a probability might come about quite contrary to that which was mentioned recently, when we were saying that the tribe of sophists laid their snares for the ignorance of the multitude, and that as a result of this the legitimate sons of philosophy came to have less repute than the superstitious and fraudulent.
But when those who hold the reins of government, and have the affairs of the cities in their grasp, are not of the people, but possess intellectual culture, they will quickly make the distinction between the legitimate and illegitimate philosopher, and no longer will it be difficult for the common people to learn what sort of deception has been practiced upon them.
There will be no need to address them on the matter; all that is necessary is to brand the charlatans with their own obscurity.
我々は詭弁家の連中が大衆の無知に対して罠を仕掛け、その結果哲学の正統な息子たちは迷信家たちや詐欺師たちよりも悪い評判を受けるようになったと言ったが、そこで先頃述べたこととは全く逆のことが起こる可能性がある。
しかし政治の手綱を握り、都市の状況を把握している人々が、民衆文化ではなく、知的な文化を担っていれば、彼らはすぐに正統な哲学者とそうではない哲学者を見分けるであろうし、もはや一般人にとってはどんな類のごまかしが自分たちに行われてきたかを学ぶのが難しいものではなくなるだろう。
このことを彼らに向けて話す必要などないだろう。
必要なのはペテン師たちに彼ら自身の蒙昧さによる烙印を押すことだけだ。
It is, moreover, a law of Nature that the class which leads should be admired, by reason of the subjection of the governed.
Nay, even now, mostly for the very drollness of things the multitude follows the long-haired sages and all such brazen creatures, and esteems them something extraordinary, and the other more variegated sorts of sophists they all but worship and stand in awe of, particularly those who stride about with a mighty staff, and clear their throats before they speak.
さらに言えば、被統治者の服従という理由から、指揮を執る階級が称賛されるべきであるというのは、自然の法則だ。
否、今なお、およそ実に奇天烈なことに群衆は長髪の知恵者とかそういう厚かましい生き物たちを支持し、彼らを何か類い稀なものだと尊敬し、その他の様々な種類の詭弁家、特に大きな杖を持って闊歩し、喋る前に咳払いをする奴らを皆が崇拝して畏敬の念を払っている。
So you will come to the rescue of philosophy in misfortune, but you will not be her accuser, for she is guilty in nothing.
The right thing seems to have taken place, and you will further this in the direction of what is better and more fitting, as soon as the study of philosophy has gained a stronger hold upon you.
Nay, even now you have nobly taken up the common fight, barking back at these dogs, and undertaking to fortify our Decelea.
そこであなたは不幸の中にある哲学を救いに行くのだが、哲学に罪は何一つないのだから、あなたはその告発者にはなってはならない。
正しいことが起きているようであり、哲学の探究があなたをもっと強く絡め取っていくならすぐに、あなたはこれをさらにより善く適切な方向へと押し進めていくだろう。
否、あなたは今もう気高く公の戦いを始めていて、あの犬どもに吠え返し、我らがデケレイアの要塞化に取り掛かっている。
(訳注:紀元前5世紀のペロポネソス戦争で、スパルタ人がデケレイアという都市を要塞化してアテネへの攻撃に使った故事に例えている。
シュネシオスはパエオニウスに哲学的精神を持たせて、非哲学的な政府を揺るがそうとしていた)
Now, having informed myself about you from those who have known you longer than I have, and having known you myself some little time, I am anxious to kindle the sparks of astronomical lore that are lying dormant in your soul, and to raise these aloft by means of your innate qualities.
Astronomy itself is a venerable science, and might become a stepping stone to something more august, a science which I think is a convenient passage to mystic theology, for the happy body of heaven has matter underneath it, and its motion has seemed to the leaders in philosophy to be an imitation of mind.
It proceeds to its demonstrations in no uncertain way, for it uses as its servants geometry and arithmetic, which it would not be improper to call a fixed standard of truth.
I am therefore offering you a gift most befitting for me to give, and for you to receive.
It is a work of my own devising, including all that she, my most reverend teacher, helped to contribute, and it was executed by the best hand to be found in our country in the art of the silversmiths.
さて、私よりもずっと前からあなたを知る方々にあなたのことを伺い、私自身もあなたとは少しの間知り合いだが、私はあなたの魂の内に眠る天文学の教えの火花を熾し、それをあなたの天性の素質によって打ち上げさせたくてたまらないでいる。
天文学自体は由緒正しい科学であり、より威厳あるものへの足掛かりとなり得るもので、私が思うに神秘主義的な神学へ便利に通じる学問だ。
というのは幸福な天体はそれに支配された物質を持ち、その動きは哲学の指導者たちにとっては精神の模倣のように見えるからだ。
これは真理の不変なる基準と呼んでも不適切ではない、幾何学と算術を従者として使うので、曖昧な点は何一つなくその証明は示される。
そこで私はあなたに、私が贈ってあなたが受け取るのに最もふさわしい贈り物を差し上げよう。
これは、我が最も敬愛する師である女性(訳注:ヒュパティア)による援助の全てを含めた上で、私が自ら設計した作品であり、我が国にいる銀細工師の中でも最高の腕の者によって制作された。
Now, concerning this, by explaining it in advance, I should do something useful to the end in view, and the end I have in view is to call out the philosophic impulses in your nature.
For if you should acquire an inclination to gaze with straining eyes upon the apparent, then I shall be holding out to you a greater gift, namely, the things which concern knowledge itself.
So now turn your mind to what I say concerning what is demonstrated.
さて、これに関しては、あらかじめ説明することで、目論見の手助けとすべきだろう。
私の目論見とはあなたの天性の内にある哲学的な衝動を呼び起こすことだ。
もしあなたが目を凝らして外見を見つめる傾向を身につけたなら、私はあたなにもっと大きな贈り物、つまり、知識そのものに関することを差し出そう。
だから今は証明されたことについて私が述べることに心を向けて欲しい。
The representation of a spherical surface, maintaining identity of doctrine amidst difference of figures, Hipparchus of old vaguely shadowed, and he was the first to direct his energies to this question.
But we, if it is not more than it befits us to say, have finished the weaving of this tissue even to the fringes, and have perfected it.
The problem had been neglected in the long intervening time.
The great Ptolemy and the divine band of his successors were content to have it as their one useful possession, for the sixteen stars made it sufficient for the night clock.
Hipparchus merely transposed these stars and inserted them in the instrument.
球の表面の表現(訳注:数学的な表現、今でいえば座標にすること)、形の違いの中で学説の同一性の維持(訳注:非ユークリッド幾何学のことか)、古く曖昧な投影(訳注:不完全なステレオ投影、もしくはその前身である平球投影(planisphere projection)のことか)のヒッパルコス、彼はこの問題に精力を傾けた最初の人物だった。
しかし我々は、言うまでもないことだが、この織物を縁飾りまで織り上げて、完成させたのだ。
この問題は何年もの長い間放置されてきた。
16個の星によってこれは夜の時計として十分使えるものになったため、偉大なるプトレマイオスとその後継者たちである神の如き集団はこれを1つの便利な所有物とするだけで満足した。
ヒッパルコスは単にこれらの星々を投影してこの器具に盛り込んだだけだった。
Every allowance must be made for these men, inasmuch as the more important problems were still unsolved, and geometry was still at the nursing stage.
They were therefore obliged to work on hypotheses only.
But we, in return for the splendid mass of knowledge that we owe to their achievements, without labor on our own part, should be grateful to these happy men who forestalled us.
もっと重要な問題がまだ解決されておらず、幾何学はまだ発展途上の段階にあったため、彼らはそれぞれの手当てをしなければならなかった。
そのため彼らは仮説のみに基づいて研究を進めざるを得なかった。
しかし我々は、我々自身が労することなしに、彼らの業績のおかげでこの申し分ない知識の塊を得た見返りとして、我々に先んじたこの幸福な人々に感謝しなくてはならない。
At the same time we esteem it an ambition by no means unworthy of philosophy, to attempt to bring in now certain adornments, to make a work of art and to produce something new of the first order.
For even as cities when first founded look only to the necessities of life, to wit how they may be preserved and how they may continue existence, but as they advance are no longer content with what is needful, and rather expend money on the beauty of the porticoes and gymnasia, and the splendor of the forum — so in the case of knowledge, the beginning is engaged with the necessary, only the development with the excellent.
同時に今やある種の装飾を取り入れ、芸術作品を作って何か新しい一流のものを生み出そうと試みることは、決して哲学に不釣り合いな抱負ではないと我々は考える。
というのも最初に設立された頃の都市は生活に必要なもの、すなわちいかにして維持されていかにして存在が継続されるかのみにしか目を向けていなかったが、都市が発展するにつれ必要なものにはもはや満足せず、むしろ柱廊玄関や体操場の美しさ、公共広場の壮麗さに金銭を費やすようになった――そのように知識の場合も、最初は必要なことに、発展した後に秀でたことに携わる。
Now the question of the projection we thought worthy of study for its own sake.
We worked it out and elaborated a treatise and studded it thickly with the necessary abundance and variety of theorems.
Then we made haste to translate our conclusions into a material form, and finally executed a most fair image of the cosmic advance.
さてこのために研究に値すると我々が思った投影の問題(訳注:ステレオ投影)である。
我々はそれを解き論文にまとめ上げ必要な多数の様々な定理を緻密にちりばめた。
それから我々は急いでその結論を物質上の形状に変換し、そしてとうとう宇宙の進展の最高に美しい写像を実現させた。
This very manner of approaching the problem gives us the means of cutting a flat surface and the even cavity into identical divisions.
And as we think that any sort of hollow is more nearly allied to the completely spherical, we have hollowed the breadth by pressing it in, and have turned it in, and have turned our attention to the rest in such wise that the image side of the instrument may remind the intelligent observer of the reality.
For those stars which are distinguished by six dimensions, we have placed therein, preserving their relative shapes.
And of the circles, some we drew round, and some so as to intersect the others.
Then we divided them by degrees, making the division lines of each five degrees larger than the lines that divide each separate degree; we also enlarged the inscriptions indicating the numbers at these lines, and what is below is on silver, the black giving the appearance of a book.
この問題に取り組む方法(訳注:ステレオ投影)は正しく我々に平坦な表面(訳注:地表、地球)と均質な空間(訳注:天球)を同等の区分に分割する手段を提供する。
そして我々はどのような空間(訳注:天球のことか)もほぼ完全な球に近いものであると考え、それを押し込んで幅を空にして、内側へと畳み込み(訳注:天球と赤道座標系の平面への投影)、それから残りの部分を我々の視点として器具の写像の面が現実での知力を持った観測者に対応するように(訳注:地平線と地平座標系の平面への投影)した。
第6次元(訳注:天動説における恒星天のことか)に区別される星は、位置関係を保ったまま、その中に配置した。(訳注:リートの作図)
そして数々の円は、いくつかは円として描き(訳注:ティンパンの等高度線の作図)、いくつかは他の円と交差するように(訳注:ティンパンの不定時法による時刻の区分線の作図)描いた。
それからその円を度数ごとに分け、5度ごとの分割線は1度ごとの分割線よりも大きくした。(訳注:等高度線)
また我々はこれらの線の度数を示した刻印も大きくし、銀板上で下の方にあるものは、本(訳注:本に書かれた文字)と同じように黒くした。
(訳注:この1文は相当な意訳をした。刻印に墨入れをして見やすくしたのではないか)
But they were not all cut in the same line, either individually or with each other.
Some are cut equal in size, others irregularly and unequally in appearance, but in calculation uniform and equal.
This was a matter of necessity, so that the different figures should agree.
On this account also the largest circles which are drawn through the poles and the signs of the tropics, although they remain circles in calculation, have become straight lines by the change in the method of view.
Thus the Antarctic circle has been inscribed greater than the greatest, and the relative distances of the stars have been lengthened to the plan of projection.
しかしこれらは個別にであれ互いにであれ、同じ線に区切られた訳ではなかった。
同じ長さに区切られたものもあれば、不規則で不揃いな見た目に区切られたものもあるが、計算上は均一で等しい。(訳注:ステレオ投射は距離や長さは保存されないが、角度が保存される)
これは異なる形状(訳注:球面と平面での目盛り)を一致させるために、必要なことだった。
それ故に2つの極と回帰線のサインを通る大円(訳注:子午線を表す線)は、計算上では円のままだが、見方の変化のために直線となる。
こうして南極圏の円(訳注:南回帰線の円)は最大値よりも大きく刻まれ、星々の間の相対的な距離は投影図面に合わせて長くなっている。
As to the epigrams, they are of solid gold, and we have carved them and inserted them under the Antarctic circle in such places as are free from stars.
The second of the two, the one in four lines, is ancient, and contains a general eulogy of astronomy:
短い詩を、純金で、南極圏の円の下の星がない部分に刻み入れた。
2つの詩のうち2番目のものは、4行で1つの詩だが、古代のもので、一般的な天文学の賛辞が書かれている。
Mortal I am, well I wot, and ephemeral; yet when I thread my
way through the crowded stars, hemming me this way and that,
no more do I touch with my feet the dark earth, but in union eternal
dwell I with Zeus the most high: mine is ambrosial food.
「私は死すべき者、儚い存在だとよく分かっている。
だが私を取り囲む、混み合う星々の間を縫うように進むとき、
私はもはや暗黒の大地に足を触れているのではなく、
永遠に最も高きゼウスと共に住まう。神の糧が私のものである。」
(訳注:プトレマイオス作、パラティン詞華集(ギリシア詞華集)9巻577章)
But that which takes precedence of this, the stanza of eight lines, was written by the one who constructed the work itself, by me, and it contains a summary and general view of those things which are seen thereon.
The description is forceful, composed with more science than nicety of expression, for it seeks to tell the astronomer alone what advantage he can get from the instrument
しかしその前にある、8行の詩節は、その作品を構築した者、つまり私が書いたもので、そこに見受けられるものの概要と全体像が書かれている。
この詩はただ天文学者のみがその道具から得られる利点を伝えようするものなので、その記述は力強く、優雅な表現というより科学的に綴られている。
It professes to show the places of the stars, not their positions in respect to the zodiac, but in respect to the equator.
For it has been shown in my work that it is impossible to take the positions in reference to the former.
And it says that the obliquities have been represented, I mean of the parts of the zodiac with respect to the parts of the equator, and for all of them the ascensions also.
That is to say, that as many divisions as there are on the zodiac, there are so many in the equator, and the same equator is divided accordingly.
And this is the poem — let it be down for such as may read it later, since for you it is enough that it lies on the tablet:
その詩は恒星のある場所が、黄道帯を基準にした位置ではなく、赤道を基準にした位置で示されることを明言している。
というのは前者を基準にした位置を採用するのは不可能であると私の研究で示されたからだ。
さらにその詩は傾斜が表現されていると言う。
これはつまり黄道帯の面が赤道面を基準に示されており、アセンダント(訳注:黄道と地平線の交点)もまたその全ての部分でそう示される。
これは言わば、黄道帯が度数で区切られているように、赤道上も、同じように度数で区切られているということである。
その詩がこれである――あなたにとってはこれは盤の上にさえあれば十分なので、後で読むかもしれない人々のために以下に記す。
Wisdom has found a path to the heavens — O mighty marvel! —
and intelligence has come from these heavenly beings.
Behold! It has ordered the curved form of the globe
and it has cut the equal circles with unequal spacings.
See the constellations all the way to the rim whereon the Titan,
holding his kingdom, metes out day and night.
Accept thou the slantings of the zodiac, nor let escape thee
those famous centers of the noontide assemblages.
「叡智は天への径を見出した――おお偉大なる不可思議!――
そして知力は天に坐す者たちから生まれ出た。
見よ! それはこの世界をたわめた形へと整え
均等な円を不均等な間隔へと切り分けた。
己の王国を守り、昼と夜を与えるティターン(訳注:土星)の
坐す縁まで続く遙かなる星座を見よ。
汝、黄道帯の傾斜を受け入れよ、そしてこの
子午線の集う名高き中心から逃れること勿れ。」
(訳注:ギリシア語で土星は「クロノス(Κρόνος)」であり、また当時は土星が宇宙の果てと考えられていた)